あちこちのサービスに自分の切れ端が散らばってるのはあんまり良くないなと思う

Twitter / ぶるぅ: あちこちのサービスに自分の切れ端が散らばってるのはあん…


全くそう思う。でもその理由がいまひとつ掴めない。
自分が揺らぐから、と先日結論付けたんだけれど、それって本当なのか?

kanakana@tumblr.

僕は全く逆だなー。

一カ所に全部まとまってたら

読む方はわけわからなさすぎるだろうと思うし。

「マックスウェルの悪魔」
混ざった物を分けるのは悪魔じゃなきゃ出来ないけど、分離した物を混ぜるのは子供でも出来る。
CPUに一カ所にまとめさせて見せりゃ良いじゃん。なんで人間がわざわざ苦労するの? (via otsune) 2007-06-09 (via yasaiitame) (via gkojax) (via appbank)

posted: 12 hours ago | 30 notes | reblogged from: appbank | created by: kanakana | tags:

594 :Nanashi_et_al.:2009/11/30(月) 13:15:07
私の専門は有機化学ですが、数ヶ月ほど前に私たちの業界でこんな事がありました。
中国のある研究グループが、通常は塩基や還元剤として使われる水素化ナトリウムという試薬を
使って、常識的には起こりえない酸化反応が起こったとしてアメリカ化学会誌に結果を報告しました。
アメリカ化学会誌は私たちの業界ではトップクラスの権威を誇る雑誌で、その報告の信頼性に
疑問符が打たれました。
今までだと、追試をした論文を待たなければならなかったのですが、その論文を見た複数のブロガーが
追試し、リアルタイムで反応を報告するという行動に出たのです。結局、本来不活性ガス下で
おこなうべき反応に空気(酸素)が混入していたために起こった、実験上のミスではないかという
結論が得られました。

しかし同時に注目されたのは、論文の検証や査読という機能がいまやブログやツウィッターで
おこなわれたという事実です。たぶんもう追試は論文にならないでしょうから、その結論はネットを
ウオッチした人間だけが知ることになります。
日本で起こったセルカン事件ではその機能を、2chが担ったと言えるのではないでしょうか。
そういう意味では今回のセルカン事件の検証は必然であったと思います。
何しろ悪評高い2chですから、今回の検証が胡散臭い目で見られるのは仕方がないです。でも2chと
ブログやtwitterのどっちが胡散臭いかというと、いい勝負です。
しかしその胡散臭い場こそで研究者倫理が機能したという事実は記憶しておくべきでしょう。

すみません、余計な感想を言いました。検証チームや申立人のみなさん、応援しています。
私たちにできることがあったら、是非言って下さい。

posted: 1 day ago | 99 notes | reblogged from: tsupo | created by: yuco | tags:
posted: 1 day ago | tags:
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技術の厚みというのは、要するに失敗経験なんだから、社会の安全需要が高まるほどに、技術者の層が薄くなるのはある意味しょうがない

Twitter / medtoolz (via rpm99) (via lotaki) (via saitamanodoruji) (via yaruo)

これは事実だろうなあ。トラブルシューティングから学べることってものすごく大きい。

(via yoosee) (via jacony) (via theemitter) (via ssbt)
posted: 1 day ago | 78 notes | reblogged from: ssbt | created by: rpm99

295 名前:可愛い奥様[sage] 投稿日:2009/11/28(土) 00:58:11 ID:ON1gbMmM0
前の会社で2億の機械を俺のミスでぶっ壊した時
社長はショックで声がでなくなりながらも振り絞るように
「君に怪我がなくてよかった。機械はまた買えばいい」と言ってくれた
その時、俺はこの社長に一生ついて行くと決意した


296 名前:可愛い奥様[sage] 投稿日:2009/11/28(土) 01:18:32 ID:H8PuIIzd0
»295
前の会社てw あっさりやめとるがな。

posted: 1 day ago | 206 notes | reblogged from: ssbt | created by: yellowblog

ドトールみたいな所で働いてるけど
実はドリンク飲んだ後のカップにナプキンやら砂糖の袋やら詰めて返却するのは
ありがた迷惑以外の何物でもないんだぜ。

ゴミ箱に入れるか、じゃなきゃ中途半端にかたさず無造作にトレイの上に置いてくれた方がありがたい。

posted: 1 day ago | 74 notes | reblogged from: gkojax | created by: miscforseek
posted: 5 days ago | tags:

で、『このライトノベルがすごい』で順位がどうこう騒いでました。

作家さんがたの中には本気でこういう読者参加型のイベントに嫌悪感示す人いるんですよね。

ネット上でアマチュアが感想垂れ流してるだけなのにそういうのに権威持たせるな!とかいうのが大まかな意見らしいです。

もちろんそのとき杉井亭にいる人全員が好き勝手に評価されている当の本人たちなので、そんなふうな結構厳しい意見も飛び交います。

でも、私、この前『金と芸術』なんてストレートな本読んだんです。そこに大体こんなことが書いてありました。


「アーティストが批評家の評でどうこうなることはまずありそうもない。特にマイナスの方向にはそうだ。なぜならば多くの観客は批評家の批評などまず見ないし、批評家の批評をわざわざ見るほどの客は自分の目で作品を選ぶ」


愛の対義語って無関心だってさ。悪評も評、てよく聞く言葉だと思います。

まああとは、ライトノベルって言葉を使うな! 定義するとSFとかミステリみたいに滅ぶ!とかもたまに聞きますね。

で、それについても『金と芸術』にありました。(著者はオランダのアーティスト兼経済学者。どこの国のどのジャンルの芸術も似たようなものなのかなと思いました)


「アーティストは自分の作品を定義されることを嫌う。ただ、アーティストが自分の関わる作品群には定義しきれない新しいものがあると思い込むのは勝手だが、歴史を振り返れば、すべての芸術が定義され整理され、時代の一つの区分になってきた」


私はこういう考えに賛成する。

その思い込みの幻想の中でどう頑張るかが創作だ!

定義するなと騒ぐのが創作なのではない!

posted: 1 week ago | 56 notes | reblogged from: ssbt | created by: katoyuu

ハリウッドのマニュアルの基本としてあるのは、大ざっぱに言うと「まず作品の全体像を調和ある形で整え、そこから逆算して細部を決定していく」ということだ。このような考え自体は、欧米では目新しくも何ともない。というよりはむしろ、このような考えこそヨーロッパの思考の保守本流だと言うべきだろう。昔からあるストーリーテリングについての考えを、誰でもすぐに使える形にシンプルに整理したものこそ、現在のハリウッドのマニュアルなのだ。

 だから、シド・フィールドがアリストテレスやへーゲルに言及するのは、偶然ではない。劇作の構成原理として全体像の調和を重んじ、そのための方法論を最初に整備した著作こそ、アリストテレスの『詩学』だったわけだし、「全体性」についての思考自体をヨーロッパ史上最も完成された形で示した者こそ、へーゲルに他ならなかったわけだ。

 へーゲルの弁証法は、常に二項対立に基づいている。ある概念があれば、それと反対の対立概念も存在し、両者は矛盾する。だがこの矛盾が解決されることで、対立する両者を含むより高次の概念が開かれる。そして、このような対立の集積がやがては世界の全体像に至る。世界の内で、部分と全体はスムーズに連続する。

 ものすごくおおざっぱにまとめているが、ハリウッドのマニュアルはこれぐらいにまで要約された上でのへーゲル的な世界観に基づいていると言ってよい。主人公には必ず目的が存在し、その目的を達成するためには、様々な障害と衝突せざるを得ない。目的の達成のためには、それぞれの障害を乗り越える必要があり、一つ一つ乗り越えていくたびに、最も大きな最終目的に近づいていく。そして、このような構成を最も全体的に調和が取れた形にするには、主人公と対等に近い立場のライバルの存在が不可欠となる

。主人公の目的とライバルの目的が対立し、その闘争こそが目的の達成に対する最大の障害となり、そこでの勝利がすぐさま目的の達成につながるのであれば、ストーリーの構成は、首尾一貫した調和の取れたものとなる。

 では、『マトリクス』の場合はどうなのだろうか。主人公であるネオの最大の目的は、「マトリクス」の支配から逃れることだ。しかし、この作品で言うところの「マトリクス」とは、全ての人間が知らず知らずの内にその内部に閉じ込められている巨大な仮想現実世界そのもののことだ。作中でモーフィアスが言うように、「マトリクス」は、あらゆる時に、あらゆる場所で、人間の周囲に常に偏在する。

 ここに、『マトリクス』という作品の抱えた最大の問題がある。「マトリクス」とは世界そのものの構成原理のことであり、実体として具体的に存在するものではない。ゆえに、「主人公ネオ対マトリクス」という、二項対立の図式を作ることはできない。

 つまり、「マトリクス」という概念自体が、へーゲル的な世界観とはうまく結びつかないのだ。「マトリクス」とはどう考えてもスピノザ的な概念なのであり、そのような題材をストーリーの中で処理できたのは、例えばフィリップ・K・ディックであるということになる。

 「マトリクス」という概念は、ハリウッドの脚本システムでは描けない。それでもなお、そのシステムにのっとってストーリーを構成しようとすればどうなるのか。まさにここに、「エージェント」というキャラクターが創造された原因がある。エージェントとは、マトリクスという仮想現実世界の番人・監視者を務めるプログラムであり、仮想現実の内部では「いかにも悪役」という見た目をもって実体化される。

 つまり、「主人公ネオ対マトリクス」という図式は描けないが、「主人公ネオ対エージェント・スミス」という図式ならハリウッドの脚本システムで描ける、ということだ。だからこそ、『マトリクス』第一作の脚本は破綻なく構成することができた。マトリクスそのものとの戦いは一切描かれず、ただマトリクスの代理者としてのエージェント・スミスとの戦いだけが描かれる。そして、エージェント・スミスに勝利した時点で、「マトリクスとの本当の戦いはこれから」ということだけが示唆されて第一作は終わる。

 確かに、第一作だけを見れば、緊密に構成された脚本であるように思える。しかし実は、この脚本はこの時点ですでに続きなど書けないようなシロモノなのだ。所詮はエージェントは実体を持たない存在であり、実体のないマトリクスとは全く異なる。したがって、どれだけエージェントとの戦いを積み重ねようとも、マトリクスとの戦いには永久に到達しない。

 だから、同じやり方をそのまま続けて、マトリクスが支配する世界の全体像を描こうとすること自体がすでに失敗だったのだ。それでももしやるとするなら、マトリクスは到達不可能な不可視の中心とした上で、その周囲をめぐるエピソードだけを積み重ね、その世界の全体像は決して示さない、そんなやり方しかないだろう。

 しかし、ウォシャウスキー兄弟は、この題材とハリウッドの脚本システムが全くそぐわないことに自覚的でなかった。するとどうなるのか。このシステムにのっとっているかぎり、実体を持つ敵との戦いをストーリーの中心に据えざるを得ない。その結果、本来はマトリクスの代理人に過ぎなかったはずのエージェント・スミスの、作中で占める割合がどんどん増大することになる。

 二作目以降、エージェント・スミスがネオに対して、「私とお前は特別な関係で結ばれている」というようなことをしきりに言うようになる。しかしこれは、ただ単に脚本の構成上そのようにしか書けなかったことをウォシャウスキー兄弟が自覚できていないというだけのことだ(ついでに言うと、三部作を通して、多くのキャラクターがいかにも哲学談義といった風に世界の原理を語っている。「誰もが選択を迫られる」とか「誰でも役割がある」とか「私の役割はこれ」とか「人は目的を持って存在する」とか「お前は私の目的を奪った」とか。しかし、これらは全て、「ストーリーやキャラクターはこのように構築しなければならない」という「ハリウッドの脚本システムの原理」をそのまま語っているだけなのだ。そんなものは別に世界の普遍的な原理でもなんでもないんだよと言いたい)。

 そして、ついに三作目では、「マトリクス」という概念自体がむしろ脇役のようなものになり、「主人公ネオ対エージェント・スミス」という二項対立がストーリーの中心になってしまったわけだ。

 ハリウッドの脚本マニュアルは万能ではない。このマニュアルでは処理しようのない題材もあるということを逆説的に証明してしまったのが、『マトリクス』三部作だったのだ。

posted: 1 week ago | 58 notes | reblogged from: ssbt | created by: rajendra
残った人生の中で
今が一番若い時期なんだぜ
ぁゃιぃ(*゚ー゚)NEWS 2nd 残りの人生 (via toriaji) (via jinon)
2008-03-15 (via gkojay) (via petapeta) (via etecoo) (via kml) (via vmconverter)
posted: 1 week ago | 130 notes | reblogged from: vmconverter | created by: kurousa
posted: 1 week ago | tags: